「あー…やっと、終わった……」

最後のページの原稿をチェックし終えて、思わず出た言葉。
毎度の事ながら、締め切りの前は文字通り猫の手も借りたいほど忙しい。
特に原稿の締め切りを毎回口を酸っぱくして言っても守らない人がいて、 担当の隊員が催促に行っても軽くあしらわれてしまい、いつも最後は修兵が直接せっつきに行くのだ。
その間の修兵の仕事は完全に止まってしまう。
修兵でなくても良いだが、やはり己の目で誤字脱字や校正に間違いが無いかなどを見ておきたいからだ。
座りっぱなしなのと、長時間同じ体勢でいたのとで、ぎしぎしと軋む身体を伸ばす。
デスクワーク時のみに掛ける眼鏡を外して両目の目頭を指で摘むように揉みながら遅番の隊員を呼ぶ。
チェックが終わった原稿を渡し、印刷所に持って行くよう支持をする。

「んじゃ、お先に。後はよろしく」
「はい。お疲れ様で御座いました」









ちゃいるど・ぱにっく




「あれ…?」

自室へ向かう途中、酷使し過ぎたのか右の視界がぶれることに気が付いた。
このまま放っておけば明日の昼には頭痛へと変わってしまうかもしれない。
それだけは避けなければ、鬼に殺されてしまう。
どっちにしろ小言は言われるのだろうが(もっと早く来いだとか、定期健診には必ず来いだとか) 前回の失態を思い出してぶるりと体を震わせた。

「…あれは、本当に死ぬかと思った」

ちょうど目薬も切れかけている。
後回しにすると行きそびれてしまうだろうと判断し、技局へと向かった。
その先で何が起こるかも知らずに・・・。


その頃、件の鬼はそろそろ修兵が来る頃だと見計らって目薬を用意していた。
定期健診の日に来れば切れる事無く服用できると言うのに、 忙しいからと託(かこつ)けてなかなか足を運ばない。
実際に隊長となった今、忙しいのかもしれないが、ほんの10分程度で済むことなのだ。
それだけの短時間も取れないほど無能でもないだろうに。
思わず溜め息が出てしまう。
眉間の皺は三割り増しだ。
紙袋に目薬を入れて時計を見る。
締め切りの時間は過ぎているので、自分の読みが正しければもう直ぐ来る頃だ。
机の上にぽん、と置いて煙草を吸いに喫煙所兼休憩室へ向かう。
目薬の入った紙袋の隣に、同じ紙袋が置かれていたのに気が付かず。
阿近が休憩室に入ったと同時に、一人の局員が少し慌てた様子で戻ってくると、紙袋を一つ持ち去って行った。
その局員と入れ違いで修兵が入ってくる。

「すいません、阿近います?」
「あ、檜佐木隊長!阿近さんなら休憩室だと…あ、戻ってきましたよ」

修兵が声を掛けるといち早く反応したのが、口の端に餡子を付け、空の湯飲みを持ったリンだった。
休憩室の方を見るとちょうど阿近が出てきたところで、あちらも気が付いたのか修兵を見るなり溜め息を吐く。

「何、その溜め息。折角カッコいい修兵君が来たってのにつれねぇなぁ」
「誰がカッコいいって?」
「お・れ」

胸を張って自分を指差す修兵を阿近は鼻で笑う。

「っは、カッコいい奴は定期健診サボった挙句、症状悪化させてぶっ倒れたりなんかしねぇよ」
「うぅ…それ、まだ根に持ってるわけ?」
「当たり前だ。俺も暇じゃないんだよ。お前がぶっ倒れた所為で作業が一時中断したんだ。 提出期日に間に合わなかったらどう責任取ってくれる心算(つもり)だったんだ?」
「…悪かったよ」

阿近の言葉にしゅん、と項垂れる修兵。
周りのことは気にするくせに、自分の事となると無頓着な修兵には一度キツく言う必要があった。
反省している様子の修兵を見て、阿近は腕組を解くと項垂れたままの頭に手を置く。
わしゃわしゃとかき回すと下から痛い!と抗議が来たので、 ぱっと手を離すと、あちらこちらに跳ねた髪を直しながら顔を上げた。
その頬は膨れて唇を尖らせていたが(大の大人、しかも野郎がする顔ではないが不思議と違和感が無い) あえて無視して、ペンライトを握る。

「今回は早めに来たことだし許してやるよ。ついでに義眼の調子も診てやる。そこに座れ」
「……へいへい」
「もう少し上向け…おい、いつまでんな顔してんだ。カッコいい顔が台無しだぜ?隊長殿」
「誰の所為だと思ってんだよ…」
「さぁてね。…まぁこのくらいなら目薬で事足りるな、左は?」
「特に異常なし」
「…ああ、そのようだな。目薬は机の上の紙袋に入ってる。ここで一回点(さ)してから帰れ。 んで、今日、寝る前にもう一回。明日目が覚める頃には治まってるだろ」
「んー、サンキュ」

下瞼を引っ張りペンライトで光を当てて義眼の様子を見る。
多少瞳孔が開き気味ではあったが、このくらいなら目薬で十分だった。
机を指差してペンライトを元の場所に戻す。
尻目に目薬を持って首を傾げている修兵がいたが、大して気に留めなかった。
だが、ホンの少しばかり違和感を感じ修兵の方を見やる。
まず液体の色が違う事に気が付いた。
瞬時に止めようとしたが先ほどまで修兵が座っていた椅子に躓き、目薬まで届かなかった。
何とか腕を伸ばし、隊長のみが着ている白羽織の袖を掴めたので力の限り引っ張り下ろす。

「う、あっ……!?」
「げ」

阿近の努力も虚しく、薬は一滴容器から零れ、運悪く修兵が驚いた時に開けた口へ吸い込まれた。
周りも含め、しばし固まる時間。

「ちょっ…とぉぉぉぉおおおお!!!飲み込んじゃったじゃん!飲み込んじゃったじゃん!うえ、苦!?まず!!」
「そんなことより、早く吐き出せ!!それは俺の作った目薬じゃねぇんだ!!」
「ええええぇぇぇぇっ!?無理言うなよ!」
「いいから、吐き出せ!!」

騒ぎ立てる修兵の頭を脇に抱えるようにしてガッチリ押さえ、 頬を掴み、上顎と下顎の間を指で挟んで、口を閉じさせないようにする。
いつもなら冷静な態度で対応するあの阿近が、柄にも無く乱暴な行動をとり焦っている。
修兵はそんなにやばい物なのかと思い、顎を掴まれている痛みも加え、不安で不覚にも涙が滲んできた。

「いでででででっ、ギブ!ギブ!!」
「うるせぇ!暴れるな!」

バシバシと頭を掴む腕を叩くが緩む様子は無く。
阿近は埒が明かないと判断すると、大量の水を持ってくるよう指示を出す。

「ちょ!マジで顎が砕けるか、ら……あ?」
「……おい?」

頭を押さえている阿近の腕を掴んでいた修兵の手から力が抜けた。
途端に大人しくなった修兵に阿近は訝(いぶか)しげに顔を覗き込もうとした。
刹那。
びくり、と大きく修兵の体が震えると、呼吸がだんだん激しくなりはじめた。
先ほど力の抜けた手は、今は指先が真っ白くなるまで自分の死覇装の胸元を握り締めている。
明らかに様子がおかしい。

「…あっ、ぐ!」
「修兵!!」
「っは、うっ…んだ、これぇ!」
「おい、しっかりしろ!」
「か、らだっ、じゅうが…いてぇっ……」
「修兵!!!」

かくりと力の抜けた体。
閉じられた瞼に意識を失ったのだと判断し、慌て作業台の上に寝かす。
青白い顔に、脂汗で張り付いた前髪を分けてやる。
そして違和感に気が付く。

「……幼くなってる?」

大人の輪郭から、子供の丸みを帯びた輪郭に変わり、 先ほどまで見えていた手足が死覇装の中に隠れている。
修兵が意識を失ってから凡(およ)そ5分。
今、作業台に眠るのは幼くなってしまった九番隊隊長本人。
最初から見ていた局員も、一部始終を見た局員も皆青褪めた。















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